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☑️芝山岩を眺める/芝山岩から眺める
ー「台湾史」にどう向き合うかー
(『思想』第1119号、岩波書店、2017年6月)

『思想』の小特集テーマ「現代台湾と〈1945〉ー「跨境」する歴史経験」のもと、清朝期までは大陸からの移民者の心の拠り所、日本統治期には「教育者の聖地」、戦後は「諜報機関の本拠地」と変遷した台北・芝山岩に注目し、「郷土史としての台湾史」のなかで芝山岩の歴史的位置を捉え直そうとする取り組みについて検討した。「芝山岩」という歴史的空間を浮かび上がらせる多様な視線の交錯のありようから、「わたしたち」が主体的に「台湾の歴史」に関わるとはどういうことなのかについて考察した。


☑️芝山巌の「神社」化
ー台湾教育会による整備事業を中心にー
(教育史学会『日本の教育史学』第59集、2016年10月)

日本統治期の台湾において「教育者の聖地」と言われていた芝山巌が、まさに「聖地化」されていくプロセスについて、芝山巌で毎年2月1日に「芝山巌祭」と呼ばれる祭典を主催していた台湾教育会による整備事業に注目し、芝山巌に「神社」風の施設が整備されていく経緯について検討した。1896年1月のいわゆる「六氏先生」の「殉職」から始まる、祭典の場所としての芝山巌が少しずつ神社としての体裁を纏っていくことで「聖地」としての性格を与えられていったことを指摘した。


☑️「芝山巌事件」の儀式化
ー「芝山巌祭」の開催に着目してー
(天理大学中国文化研究会『中国文化研究』第32号、2016年3月)

1896年1月に台北・芝山巌で発生した日本人教員たちの「遭難殉死」事件、いわゆる「芝山巌事件」について、事件の「追悼」から始まった動きが、日本人教員を中心に少しずつ「祭典」として整備されていくプロセスについて検討した。1905年以降、台湾教育会の所管事業として行われるようになる「芝山巌祭」の「祭典」としての形は、それまでの10年間のうちに基本的な方向性が整備されたことを指摘した。


☑️日本「内地」における「芝山巌事件」の位置づけ
(奈良歴史研究会『奈良歴史研究』第84号、2016年3月)

1896年1月に台北・芝山巌で発生した日本人教員の「遭難殉死」事件、いわゆる「芝山巌事件」の日本「内地」における報道について、教育界の伝え方を中心に、「遭難殉死」した教員の位置づけや出身地域での「追悼」の様子などについて検討した。その結果、事件そのものについては2・3年のうちに人々の関心から外れていったものの、日露戦争の勃発を契機に「忠君愛国の発露」として再び想起され、その後も対外政策の動向と合わせて喧伝・利用されていくことを指摘した。


☑️植民地台湾への教育勅語の「導入」と「受容」
ー学校儀式に着目してー
(天理大学中国文化研究会『中国文化研究』第30号、2014年3月)

日本統治初期の台湾において進められた教育勅語の導入政策について、台湾総督府による「導入」と台湾住民による「受容」の様態について検討した。台湾総督府が教育勅語に付与された「儀式性」を基に「儒教の利用」を意図して教育勅語の導入を進めるなかで、「儒教」が利用されたことによる台湾住民の「親近感」と「違和感」を内包しつつ、台湾の学校教育において教育勅語が徐々に浸透していく様子を明らかにした。


☑️台湾統治初期の学校設置過程における台湾住民の「受容」
(天理台湾学会『天理台湾学報』第21号、2012年6月)

日本統治初期の台湾において進められた台湾総督府による学校設置政策に対して、台湾の人々がどのような形で「受容」し、その結果としてどのように日本の植民地教育政策が進展していったのかについて検討した。特に、一次史料に基づき、台湾の地域有力者層が自らの子弟や地域の将来を危惧するなかで、近代的な教育のありかたとして台湾総督府の学校設置政策に人的・金銭的な側面から協力していく様子を明らかにした。


☑️1890年代における「国家教育」の具体相
ー雑誌『北陸教育』の分析を中心にー
(天理大学『総合教育研究センター紀要』第9号、2011年3月)

1890年代の教育界のなかでは、教育制度・運営の仕組みにおける「国家」と「地方」との関係性をめぐって、政府関係者だけではなく、地方議員、学務官僚、教員たちが多様な議論を展開していた。本論文は、そうした時代のなかで多くの教育関係者の論説や動向を報じていた石川県の教育雑誌『北陸教育』の記事を分析し、地域の教育にたずさわる人々が教育における「国家」と「地方」の役割をどのように考え、行動を起こしていたのかを検討した。他の論考と合わせて、地域の教育者の視点から「国家」と教育との関係が多様に捉えられていた状況を描き出した。


☑️一八九〇年代宮城県における国家教育社の活動
ー自由民権運動との連続/非連続に着目してー
(日本教育史研究会『日本教育史研究』第28号、2009年10月)

「国家」と教育との関係性がどのように措定されたのかを明らかにするために、1890年代に全国的な教育団体として結成された国家教育社の活動に注目し、国家教育社に参加した人々における国家と教育とをめぐる思想・志向について考察した。理論的枠組みとして歴史社会学的な視点である「国民国家」論に注目し、社の活動を通じて、地域の教育に携わる人々が、「国民としての権利」を政府に求めることを徐々に自制し、教育勅語の普及などのような「国民としての自覚」を地域の人々に啓蒙する立場に追い込まれていくのかということを検討した。


☑️1890年全国教育者大集会における「国家教育」論の構造
(日本教育学会『教育学研究』第76巻第1号、2009年3月)

大日本教育会の主催で1890年に開かれた「全国教育者大集会」に参加した全国各地の小学校教員らの議論を、地域の教育行政の動向にまで言及する形で詳細に検討し、当時の「国家教育」論の内実を明らかにした。また、大集会での議論を受けて成立した国家教育社が「忠君愛国」を掲げ、のちに教育勅語の普及に尽力することに触れ、大集会での議論と国家教育社の存在とのねじれた関係を指摘した。


☑️台湾領有初期における教育勅語の導入過程
(教育史学会『日本の教育史学』第51集、2008年10月)

台湾への教育勅語の導入過程を、台湾総督府学務部の教育勅語導入政策と、台湾人子弟向けの教育機関だった国語伝習所や公学校における学校儀式の成立に焦点を当てて考察した。 日本による台湾領有当時、台湾を「植民地」として経営するかどうかもなかなか定まらないなかで、その台湾での教育をどのような方針で運営していくのかということもまた決まっていなかった。そうした状況のもとで、台湾に教育勅語が導入されていく経緯の具体像を明らかにした。


☑️台湾総督府学務部の人的構成について
ー国家教育社との関係に着目してー
(『京都大学大学院教育学研究科紀要』第54号、2008年3月)

1895年の日本による台湾領有後に設置され、台湾の教育制度策定と実行を担った台湾総督府学務部の創設当初の人員配置について検討し、日本の「植民地教育制度」がどのような立場の人々によって担われたのかを明らかにした。その際、1890年に日本「内地」で結成され、「国家教育」の実現を標榜していた国家教育社の活動に関わっていた人々との重複関係に注目し、彼らの日本「内地」での思考や経験が台湾の教育制度策定に影響したことを指摘した。


☑️台湾領有直後における教育事業の展開
ー台湾総督府学務部の教育構想に着目してー
(台湾史研究会『現代台湾研究』第30・31合併号、2006年11月)

1895年の日本による台湾領有は、台湾統治の方針そのものも充分に固まっていないなかで始まった。もちろん、台湾における教育制度をどのように策定し、実施していくかという方針も、実際に統治が進んでいくなかで徐々に形成されていった。本論文は、台湾総督府の公文書に基づき、台湾総督府の学務行政を担った学務部による教育制度の策定過程について整理し、紆余曲折を経たうえで日本による「植民地」的教育制度が形成されたことを明らかにした。